日記というより月記になりそうだし関係ない話にもなります…
その時々で考えていることひっかかったことばを並べて眺め考える場です

「40年くらい(溝の口に)住んでいて、散歩してると飽きるんです。でも飽きるのは眼力がないからだ、
っていうニーチェの言葉があって。 四季もあるし、すれ違う人も違うし。ああなるほどなって」  山田太一

2022. 6

2021年は塩竈市杉村惇美術館で展示をして→https://sugimurajun.shiomo.jp/archives/6571
この展覧会のイベントでは写真家の畠山直哉さんとお話をする機会に恵まれ
写真について写真家と話すことに大変緊張しましたが今後これ以上緊張することはないと思った
巨人の背中を見る思いでした
自分が学生の頃に初めて買った写真集は畠山さんのUndergroundでした

2022年の早春には石巻のキワマリ荘で展示をしました
塩竈の展示中も石巻での展示中もどちらも大きめの地震があり
石巻の方は新幹線が復旧するまで時間を要し
なかなか遠方から来てもらうには悪条件でした
このような時でも遠方から来てくれ深い考察を残していただいたので感激しました

映像作家、佐々木友輔さんによる
かんのさゆり「New Standard Landscape」展覧会評です→https://note.com/sasakiyusuke/n/nad354c2e8a08
自分は今まで作品についてこんなにきちんとしたものを書いてもらったことはなく
写真を風景論とカメラの性能の面、両方から考える鋭い論考なのでぜひ読んでみてほしいです

展示をすると経済的、体力的にかなりの打撃がありますが
展示をすると展示が上手くなるような気がするのでもっと展示をしたいと思う



しばらくこの日記も(日記というのもおこがましい)更新していなかった
ここ最近鑑賞した展示の感想を書いておく


クリテリオム98 西澤諭志  水戸芸術館現代美術ギャラリー
2019年に仙台写真月間で同時期に個展を開催した西澤さんの美術館での展示
ちゃんとした作家の公的な場所での展示機会がもっと頻繁にあるといいのにと常々思っているので
水戸芸術館での開催ということでとてもうれしく楽しみにしていた
西澤さんの作品はネットを含めるとかなり昔から観ているので
「今までの展示とどう違うのか、どこが同じか、新しくチャレンジしているのはどこかを」会場ではわりと長めに確認した
キャプションの一切ない空間に額装された写真のみが整列していた
コロナ以降とことさら強調するわけではないが細部を見ればそれがわかるものがあり
ひとつの額に2枚の画像がおさまっていたりする
言葉では示さないが「どうしてこれがここにこの状態で並べてあると思いますか?」という問いに満ちており
持ち帰ることができる会場構成についての注釈なども清廉な雰囲気で細部にも一切気を抜いていないことがよくわかる
前日に観たアーティゾン美術館では「写真にはそんなに力はないよ」というメタメッセージを感じてしまい
かなり気弱になっていたが西澤さんの展示を観て少し持ち直した

日本の風景には出来事の痕跡を強調するよう手を加えた場所と逆に残らないようにした場所がある
ストレート(に見える)写真を使った作品は一見何もしていないように見えるところが肝で
実際は色々な手を加え考えないとそうはならないという捻れがある
風景と写真の持つ政治性のことを考える良い機会になった
一発芸ではない力のあるちゃんとした作家に光が当たってほしいと強く思う

映像作家、佐々木友輔さんによる西澤展への考察が面白かったので貼っておきます
https://note.com/sasakiyusuke/n/n3f470577162b



ジャムセッション石橋財団コレクション×柴田敏雄と鈴木理策 写真と絵画 アーティゾン美術館
コロナ禍以降3年ぶりに東京へ行って観た展示
「ジャムセッション」というシリーズは美術館のコレクションと現代作家のコラボ企画とのこと
そういう情報を何も知らずに写真家2人の名を冠した展示として足を運んだので
絵画と写真を同じ壁面に並べて展示をしていることにまず驚き
会場に掲げられた「写真を読むメディアではなく純粋にタブロウとして提示している」や
「造形の純粋化」とい批評の言葉にはかなり引っかかった
随分前に書かれた言葉のようだが風景を被写体として作品をつくりそれをあくまでも「画面の中だけのこと」とする態度への疑問
原発事故後の世界でも変わらずにその態度を続けることって非常に政治的であると思うのだけど
キュレーションとしては「コレクションをどう見せるか」が先にあり写真家を呼び企画されたのだと推測する
結果として絵画や立体作品の力は発揮され、写真の力は随分削ぐかたちでの展示になっていると感じた
後半の雪舟と写真作品が並んでいるパートを観る頃にはもう身の置き場のないような感じになり落ち込んでやばかった

肉筆、唯一のもの(絵画、立体作品)
複製可能なぺらぺらのもの(写真)

こんなにも違うのかと思いながら美術館をあとにした
絵画制作をしている人がこの展示をどう観るのかが気になるところ


ナラティブの修復 せんだいメディアテーク
開館20周年の企画展示
コロナで延期になっていてようやく開催された
絵画、インスタレーション、写真、映像などひとつの空間によくおさめたなという情報量の多さで
1回の鑑賞ではとても見終えることができなかった(3回行った)

宮城にある公的な場所での展示ということで震災を越えアーティストたちが何を考えつくるのか、それを見ることを楽しみにしていた
メディアテークという超近代建築の中で「荒地」をテーマにし展開する菊池聡太朗さんの絵画作品がとても良かった
菊池さんは「有用ではない場所」への肯定と可能性を感じている人なんだろう
館内にセイタカアワダチソウを作品として持ち込んだ人ってはじめてなんじゃないかな

自分が写真を扱っているので写真作品は気になり、阿部明子さんの作品は特に何度も鑑賞した
メディアテークという場所の制約(天井の高さ壁の無さ)と一騎打ちをしていて
写真の持つ根源的な暴力性、作品とはどうやって成立するのかを考えずにはおれなかった
メディアテークでの写真の展示ということで志賀理江子さんの螺旋海岸を想起したが
阿部さんの展示にはもっともっと写真を物として突き放したところがありより過激だなと思った
現代人の生は画像を大量に残して去ることに違いなく、でもそれを一気に可視化されると気が遠くなる
もうその中でやっていくしかないのだという諦めにも似た気持ちになった




2020. 6

2019年が遥か遠くに感じるような2020年の春だった
今年も展示をする予定が決まっておりましたがそれはちょっと先になりそうです
展示をしたとして遠方から観に来れる状況になるのか誰にもわからない
そもそも展示ってなんだろう?ってことから考える日々が続いています



2019. 11

10月に仙台で個展を開催しました
(自分のサイトで告知するのをすっかり忘れていた…)

2015年に参加したグループ展を観てくれたのがきっかけで
写真家映像作家の西澤諭志さんにお声がけいただき実現した形です

こういうこともあるんだな〜って人ごとみたいに感心してしまいました
展示をしてもその後に何か反響や手応えがあったことはほぼ今までないのですが
もちろんその都度その時の全力でやってはいるんだけど反響なんてないのが普通で
なのでちょっとびっくりしているうちに終わってしまいました

展示の関連イベントでふたりでトークをしました
その音声を公開しています→ http://sayurikanno.com/talk.html
トーク内容の解説もありますのでよろしければ合わせてご覧ください
デジタル写真を巡る2000年代初頭の状況などにも触れております
ちょうどわたしは声帯が炎症していたのでいつにも増して低い声になっておりますが
よろしければ聴いてみてください

西澤さんの作品と自分の作品は撮ってるものは全く違うんだけど
何を考えて作品をつくっているかの部分で近接しているところが多くとても刺激になりました
西澤諭志さんのサイトはこちら→https://satoshinishizawa.com

仙台写真月間、展示の様子はこちらです→http://sayurikanno.com/instsarp.html



2019. 10

写真作品での過剰ともいえるようなエフェクトや彩度を極端に上げたりとか
「この世ならざる感じ」に見せたりそういう手法もみんな「現実の何も無さ」に
手を焼いて耐え難いってことの現れなのかな?って思う
現実って手強いもんな でもやはりそこから目を逸らしたくないと思う



2018. 10

おぼえがきとして
今居る場所から目を逸らさないように
人の手の入っている景観はどんなサーフェイス(表面)であれ
そこにはわれわれの無意識が逃れがたく立ち現れているのだから


2018. 6

とうとう梅雨入りらしい。しばらく撮影は休みにしてプリントをがんばろうと思う。プリントうまくなりたい。

ceroのニューアルバムがあまりにも良くてライブにまで行ってしまった。

 「この前までリアリティがあったはずだった この世界 なぜかすっかり 脆くみえる」  cero/遡行




2018. 3

また3月がやってきた
ゆさぶられる現実感
風景の方が常に少し先にありこちらにゆさぶりをかけてくる感じ
それはわれわれの深層の鏡のよう

解体される風景
解体されるリアリティ
分離する方舟 
架空の眺め
架空の街角
架空の私

これはすべてわたしたちの姿



2017. 12

冬の光は最高だな
展示は今年もできなかった…
年末年始はなんとかA浜やI巻へ撮影に行けるといい


寺崎珠真さんの第1写真集が出版された。素晴らしいので毎晩寝る前に眺めている
働いていても時間が限られていてもやる人はやる
きちんと形にするってすごいことだな

最近はKIRINJIの「AIの逃避行」ばかりを聴いている
AIが写真を撮るようになったとしてそれは人間の撮った写真とどれだけの差がでるものなのか?などととぼんやり考える
人間が条件付けだけしてAIに撮影を依頼する日も遠くないのかもしれないな…
条件付けさえいらなくなるのかもしれない



2017
. 5

 
「どんな形(メディア)でもいいので聴いてください」と若い音楽家は言う

2017. 4

「いつまでも最高20代で時を止めて ずっと恋をしていたいという「中、高、大、あらゆる二年生病」という
西欧からアジア〜アフリカまでを覆う現代のペスト」 菊地成孔映画評より



「東北」って仄暗いトーンで表現されることが多い
寺山修司作品などに見られるあの感じ…
定番の暗さがある
そろそろその暗さからイメージが更新されてもいいのに 
あんな暗さもうどこにもない
同じような店同じような街並み同じような家だらけだよ

2017. 2

光の中の行進

暗中模索という言葉があるけれど今この時代はもはや光中模索なのではないかと思う

名のある年老いた写真家は「デジタルに闇は写るかい?」と言った
その問いの答えとして もう闇はどこにもないのかもしれない

高性能になったデジタルカメラは闇の正体を真昼間のようにいとも簡単に暴いてみせる
写真において闇はすでに精巧な模造品に為り変わり真に暗い場所は消滅したかに見える

写真が真実も気分もありのままに写さないことを私たちはすでに知っている
衝撃的な瞬間も辺境の絶景も 派手な演出も過剰なレタッチも もう昔のように私たちを慰めてはくれない
白々しい光が逃げ場無くあらゆるものを照らし出す場所へいつの間にか辿り着いている
闇の中で像を手探りする時間は終わり かわりに光に晒され生きていくことが自明となった

名もない行進が至るところで生まれて進む 暫定的か恒久的かわからない景色の中で
どこまでいけるだろう ゆく先はどこだろう
それはうつくしい行進になるのだろうか?



2016. 11

(もはや日記でもなんでもないなぁ…)
観に行った展示のメモ
などを

まっぷたつの風景 畠山直哉 せんだいメディアテーク

震災関連の作品だけかと思いきや過去作も沢山展示していて回顧展のよう。
コンタクトプリントが相当数並んでおりそこへメモまで書き込んであった。なんだか人の家へ土足で上がってしまったような気持ちに。
東京での開催なら人が沢山いるであろう作家なのにほぼ貸切で観れた。
展示の関連イベントで畠山さんに密着して作られたという映画も観た。
映画の冒頭で「フィルムにこだわって作品を作っている作家」という紹介のされ方をしていてそれは具体的にどういうこだわりがあるのかとても知りたい気持ちになった。

風景のかたち 足利市立美術館
いろんな年代の作家の作品を一気に観れたので充実した気持ちになった。近作を強大な(B0かな?)サイズで出品していた小林のりおさんの作品に圧倒される。
そして足利はびっくりするほど遠かった…

リフレクション写真展2016 表参道画廊+MUSEE F
3名による風景写真の展示。トークも聞きに行った。作品のそばに作家名もタイトルも一切掲示されていないことにまず驚く。
トークを聞いて写真を言葉にする困難さを思った。寺崎珠真さんの作品に刺激を受ける。中心のないあっけらかんとした視線が好き。

D現場 百頭たけし TAPギャラリー
一体いつから知ってるのか思い出せないほど前からネット上で見続けてきた作家の作品を現実で観るのってとても変な気持ちだった。
サイズは小ぶりながら1枚1枚の情報量が多く濃い。産廃の写真を観ながら内原泰彦さんの作品のこと
思い出した。

NEWCOAST 大西みつぐ PGI
過去作と最新作の共演。フィルムからのプリントはなんとなくぼんやりして見えること、それと対照的にインクジェットはシャープな質感でバリッとして見えた。
同じ場所を長く見続けることについて考えた。



撮影雑記

2016. 6

1日に2本しかバスの通っていないところへ撮影しに通っている。
目的地に着くとあとは帰りのバスまで4時間弱。
ペース配分を間違うと帰りのバスに乗るために全力疾走することになり体力をすっかり使い果たす。
建物のない場所なので距離を知覚しにくいこともありバス停までは見えているけどとても遠く感じる。

Y地区とA浜へ。
毎週同じ場所へ行くと些細な変化にも気づけて興味深い。
公共の交通手段がほぼないところなのでY地区からA浜へはタクシーに乗り向かう。
タクシー運転手のおじさんは地元の人だった。
「この辺りはもう許可が出ちゃって家新しくなっちゃっててねまた波が来るかもしれないのにね」
写真撮ってるの?と聞かれたのでこの辺りは毎週景色がどんどん変わっていくので撮っておかなければと思って、と答えるとおじさんはポカ〜ンとしていた。
タクシー降りてから気づいたけど景色なんて全然変わらないじゃない?と思った顔だったんだなあれは…
いや変わってきてますよ。今はまだ小さなところだけかもしれないけど。
いずれ覆われ見えなくなるであろう景色ばかり。


タクラマカン砂漠を取りあげた番組を観ていたらそこに住む人々のお墓が映し出された。
砂の広がる建物が何ひとつない場所にポツポツと木の枝が挿してありその木の枝がお墓なんだそう。空はどこまでも真っ青。
なんだかとてもA浜に似ているような気がして画面をじっと見入る。



2016. 5

日記なんて言っておいて全然書けやしない…(向いていない…)
「わたしの写真」じゃなく「わたしたちの写真」を撮りたいのだろうな…
「わたしたち」というのは大げさにいうと「この時代の在りよう」というような意味あい。
この時代っていうのはまぁさらに大きく広げるとこの文明のこと。(やはり大げさだ)
そこかしこに旗を掲げそれぞれが勝手なリズムで進むそれはうつくしい行進になるのだろうか?


「生まれた街の匂い やっと気づいた もう遠いところへとひかれはしない」   荒井由実 / 生まれた街で

2016. 4

晴れた日に撮影に行けないととてもくやしい。
今日もだめだった。主に体力の関係で。もっと体力をつけたい。
暖かくなるにつれ日の光が黄色かぶりになっていく。冬のきりっとした光はそろそろ終わり。
もっと撮りに行きたい。



2016. 3

黄砂が飛んできているのか晴れるとのっぺりとした空になることが増えてきた。
むしろのっぺりとした質感の空を背景にして撮りたいのでありがたい気持ち。
海沿い方面へ向かう途中、国道沿いにまたもや荒涼としているエリアを発見。
すぐに撮影場所に決める。
そこは交通量がとても多い。
トラック、カラオケ店、ラブホテル、車のディーラー、マクドナルド、洋服の青山、イオンモール、ヤマダ電機、アコムむじんくん、焼肉店、無数の高圧鉄塔。
まさに「ここは退屈迎えに来て」の世界そのもの。

そういう景色の中歩いているとどうしてこんなことになったのか?という気持ちがだんだん湧いてくる。
嫌悪感や絶望ではなく一体どうしてこういうことに?という素朴な疑問。 まぁ誰かが望んだからこそ出現したのだろう。
とにかくこのエリアの鉄塔の大きさと多さには圧倒される。道にごみがたくさん落ちている。
わずかだけど津波の痕跡と思われるものもまだ残っていた。ひしゃげたままの柵など。

のっぺりした色の空と固有のものがなにもない景色はとても相性がいいと思う。
撮影中目に違和感があったりしてやはり黄砂が多い日だった。


2016. 2

快晴の多い冬。仙台は雪が極端に少ない冬。
晴れるととりあえずカメラを持って新築ラッシュの方面へ向かう。
震災後の数年でものすごい勢いで内陸の空き地を新築の家が埋めていくのを見た。そして今もその勢いは衰えていない感じだ。

「50年前は無かった、そしてたぶん50年後にはもう無い」といった印象のあたらしい景色の中を撮りながら歩いていく。
できたばかりのつやつやの外壁の家がずーっと並んでいる。
明らかにこの土地の在来種ではない植物たちがつつましい庭に植えられ風に揺れている。
ふと「消費期限のある景色」ということばが浮かんで来る。

iPodシャッフルは「君と利害関係したい何をしてもSTAKEHOLDER」とリピート。
かなりの強い風。日差しは目に痛いほどでここはどこなのか?自分はなんのためにここを歩いているのか?
一瞬わからなくなるような目眩がするような心地。平日の晴れた日の宅地に人は少ない。
50年前は無かったそしてたぶん50年後にはもう無い、っていうのはああ「自分」もそうなんだ、と思いながら帰路に着く。

10年前と比べて明らかにカメラに対する道行く子供たちの反応が変わってきたなと感じる。
遠くから撮っていてもこちらのカメラの存在に気づくと顔を覆うしぐさをする子がいてちょっとショックを受けた。
もうスナップショットにとっての牧歌的な時代は終わったんだなって感じる。
このところ夜になると昼間撮影した写真を見返しつつタイトルを延々考えている。
お風呂に入っていても寝床でも考えている。キーになりそうな言葉をノートに書き出していく。
お、これは!と思ってメモして寝て、翌日それを見ても全くピンとこない言葉だったりしてなにをやっているんだろうという気持ちになる。