日記というより月記になりそうだし関係ない話にもなります…
その時々で考えていることひっかかったことばを並べて眺め考える場です

「40年くらい(溝の口に)住んでいて、散歩してると飽きるんです。でも飽きるのは眼力がないからだ、
っていうニーチェの言葉があって。 四季もあるし、すれ違う人も違うし。ああなるほどなって」  山田太一

2018. 3

また3月がやってきた
ゆさぶられる現実感
風景の方が常に少し先にありこちらにゆさぶりをかけてくる感じ
それはわれわれの深層の鏡のよう

解体される風景
解体されるリアリティ
分離する方舟 
架空の眺め
架空の街角
架空の私

これはすべてわたしたちの姿



2017. 12

冬の光は最高だな
展示は今年もできなかった…
年末年始はなんとかA浜やI巻へ撮影に行けるといい


寺崎珠真さんの第1写真集が出版された。素晴らしいので毎晩寝る前に眺めている
働いていても時間が限られていてもやる人はやる
きちんと形にするってすごいことだな

最近はKIRINJIの「AIの逃避行」ばかりを聴いている
AIが写真を撮るようになったとしてそれは人間の撮った写真とどれだけの差がでるものなのか?などととぼんやり考える
人間が条件付けだけしてAIに撮影を依頼する日も遠くないのかもしれないな…
条件付けさえいらなくなるのかもしれない



2017
. 5

 
「どんな形(メディア)でもいいので聴いてください」と若い音楽家は言う

2017. 4

「いつまでも最高20代で時を止めて ずっと恋をしていたいという「中、高、大、あらゆる二年生病」という
西欧からアジア〜アフリカまでを覆う現代のペスト」 菊地成孔映画評より



「東北」って仄暗いトーンで表現されることが多い
寺山修司作品などに見られるあの感じ…
定番の暗さがある
そろそろその暗さからイメージが更新されてもいいのに 
あんな暗さもうどこにもない
同じような店同じような街並み同じような家だらけだよ

2017. 2

光の中の行進

暗中模索という言葉があるけれど今この時代はもはや光中模索なのではないかと思う

名のある年老いた写真家は「デジタルに闇は写るかい?」と言った
その問いの答えとして もう闇はどこにもないのかもしれない

高性能になったデジタルカメラは闇の正体を真昼間のようにいとも簡単に暴いてみせる
写真において闇はすでに精巧な模造品に為り変わり真に暗い場所は消滅したかに見える

写真が真実も気分もありのままに写さないことを私たちはすでに知っている
衝撃的な瞬間も辺境の絶景も 派手な演出も過剰なレタッチも もう昔のように私たちを慰めてはくれない
白々しい光が逃げ場無くあらゆるものを照らし出す場所へいつの間にか辿り着いている
闇の中で像を手探りする時間は終わり かわりに光に晒され生きていくことが自明となった

名もない行進が至るところで生まれて進む 暫定的か恒久的かわからない景色の中で
どこまでいけるだろう ゆく先はどこだろう
それはうつくしい行進になるのだろうか?



2016. 11

(もはや日記でもなんでもないなぁ…)
観に行った展示のメモ
などを

まっぷたつの風景 畠山直哉 @せんだいメディアテーク

震災関連の作品だけかと思いきや過去作も沢山展示していて回顧展のよう。
コンタクトプリントが相当数並んでおりそこへメモまで書き込んであった。なんだか人の家へ土足で上がってしまったような気持ちに。
東京での開催なら人が沢山いるであろう作家なのにほぼ貸切で観れた。
展示の関連イベントで畠山さんに密着して作られたという映画も観た。
映画の冒頭で「フィルムにこだわって作品を作っている作家」という紹介のされ方をしていてそれは具体的にどういうこだわりがあるのかとても知りたい気持ちになった。

風景のかたち @足利市立美術館
いろんな年代の作家の作品を一気に観れたので充実した気持ちになった。近作を強大な(B0かな?)サイズで出品していた小林のりおさんの作品に圧倒される。
そして足利はびっくりするほど遠かった…

リフレクション写真展2016 @表参道画廊+MUSEE F
3名による風景写真の展示。トークも聞きに行った。作品のそばに作家名もタイトルも一切掲示されていないことにまず驚く。
トークを聞いて写真を言葉にする困難さを思った。寺崎珠真さんの作品に刺激を受ける。中心のないあっけらかんとした視線が好き。

D現場 百頭たけし @TAPギャラリー
一体いつから知ってるのか思い出せないほど前からネット上で見続けてきた作家の作品を現実で観るのってとても変な気持ちだった。
サイズは小ぶりながら1枚1枚の情報量が多く濃い。産廃の写真を観ながら内原泰彦さんの作品のこと
思い出した。

NEWCOAST 大西みつぐ @PGI
過去作と最新作の共演。フィルムからのプリントはなんとなくぼんやりして見えること、それと対照的にインクジェットはシャープな質感でバリッとして見えた。
同じ場所を長く見続けることについて考えた。



撮影雑記

2016. 6

1日に2本しかバスの通っていないところへ撮影しに通っている。
目的地に着くとあとは帰りのバスまで4時間弱。
ペース配分を間違うと帰りのバスに乗るために全力疾走することになり体力をすっかり使い果たす。
建物のない場所なので距離を知覚しにくいこともありバス停までは見えているけどとても遠く感じる。

Y地区とA浜へ。
毎週同じ場所へ行くと些細な変化にも気づけて興味深い。
公共の交通手段がほぼないところなのでY地区からA浜へはタクシーに乗り向かう。
タクシー運転手のおじさんは地元の人だった。
「この辺りはもう許可が出ちゃって家新しくなっちゃっててねまた波が来るかもしれないのにね」
写真撮ってるの?と聞かれたのでこの辺りは毎週景色がどんどん変わっていくので撮っておかなければと思って、と答えるとおじさんはポカ〜ンとしていた。
タクシー降りてから気づいたけど景色なんて全然変わらないじゃない?と思った顔だったんだなあれは…
いや変わってきてますよ。今はまだ小さなところだけかもしれないけど。
いずれ覆われ見えなくなるであろう景色ばかり。


タクラマカン砂漠を取りあげた番組を観ていたらそこに住む人々のお墓が映し出された。
砂の広がる建物が何ひとつない場所にポツポツと木の枝が挿してありその木の枝がお墓なんだそう。空はどこまでも真っ青。
なんだかとてもA浜に似ているような気がして画面をじっと見入る。



2016. 5

日記なんて言っておいて全然書けやしない…(向いていない…)
「わたしの写真」じゃなく「わたしたちの写真」を撮りたいのだろうな…
「わたしたち」というのは大げさにいうと「この時代の在りよう」というような意味あい。
この時代っていうのはまぁさらに大きく広げるとこの文明のこと。(やはり大げさだ)
そこかしこに旗を掲げそれぞれが勝手なリズムで進むそれはうつくしい行進になるのだろうか?


「生まれた街の匂い やっと気づいた もう遠いところへとひかれはしない」   荒井由実 / 生まれた街で

2016. 4

晴れた日に撮影に行けないととてもくやしい。
今日もだめだった。主に体力の関係で。もっと体力をつけたい。
暖かくなるにつれ日の光が黄色かぶりになっていく。冬のきりっとした光はそろそろ終わり。
もっと撮りに行きたい。



2016. 3

黄砂が飛んできているのか晴れるとのっぺりとした空になることが増えてきた。
むしろのっぺりとした質感の空を背景にして撮りたいのでありがたい気持ち。
海沿い方面へ向かう途中、国道沿いにまたもや荒涼としているエリアを発見。
すぐに撮影場所に決める。
そこは交通量がとても多い。
トラック、カラオケ店、ラブホテル、車のディーラー、マクドナルド、洋服の青山、イオンモール、ヤマダ電機、アコムむじんくん、焼肉店、無数の高圧鉄塔。
まさに「ここは退屈迎えに来て」の世界そのもの。

そういう景色の中歩いているとどうしてこんなことになったのか?という気持ちがだんだん湧いてくる。
嫌悪感や絶望ではなく一体どうしてこういうことに?という素朴な疑問。 まぁ誰かが望んだからこそ出現したのだろう。
とにかくこのエリアの鉄塔の大きさと多さには圧倒される。道にごみがたくさん落ちている。
わずかだけど津波の痕跡と思われるものもまだ残っていた。ひしゃげたままの柵など。

のっぺりした色の空と固有のものがなにもない景色はとても相性がいいと思う。
撮影中目に違和感があったりしてやはり黄砂が多い日だった。


2016. 2

快晴の多い冬。仙台は雪が極端に少ない冬。
晴れるととりあえずカメラを持って新築ラッシュの方面へ向かう。
震災後の数年でものすごい勢いで内陸の空き地を新築の家が埋めていくのを見た。そして今もその勢いは衰えていない感じだ。

「50年前は無かった、そしてたぶん50年後にはもう無い」といった印象のあたらしい景色の中を撮りながら歩いていく。
できたばかりのつやつやの外壁の家がずーっと並んでいる。
明らかにこの土地の在来種ではない植物たちがつつましい庭に植えられ風に揺れている。
ふと「消費期限のある景色」ということばが浮かんで来る。

iPodシャッフルは「君と利害関係したい何をしてもSTAKEHOLDER」とリピート。
かなりの強い風。日差しは目に痛いほどでここはどこなのか?自分はなんのためにここを歩いているのか?
一瞬わからなくなるような目眩がするような心地。平日の晴れた日の宅地に人は少ない。
50年前は無かったそしてたぶん50年後にはもう無い、っていうのはああ「自分」もそうなんだ、と思いながら帰路に着く。

10年前と比べて明らかにカメラに対する道行く子供たちの反応が変わってきたなと感じる。
遠くから撮っていてもこちらのカメラの存在に気づくと顔を覆うしぐさをする子がいてちょっとショックを受けた。
もうスナップショットにとっての牧歌的な時代は終わったんだなって感じる。
このところ夜になると昼間撮影した写真を見返しつつタイトルを延々考えている。
お風呂に入っていても寝床でも考えている。キーになりそうな言葉をノートに書き出していく。
お、これは!と思ってメモして寝て、翌日それを見ても全くピンとこない言葉だったりしてなにをやっているんだろうという気持ちになる。