日記というより月記になりそうだし関係ない話にもなります…
その時々で考えていることひっかかったことばを並べて眺め考える場です |
「40年くらい(溝の口に)住んでいて、散歩してると飽きるんです。でも飽きるのは眼力がないからだ、 っていうニーチェの言葉があって。 四季もあるし、すれ違う人も違うし。ああなるほどなって」 山田太一 |
2022. 6 |
2020. 6 |
2019. 11 |
2019. 10 |
2018. 10 |
2018. 6 |
2018. 3
また3月がやってきた 解体される風景 これはすべてわたしたちの姿 |
2017.
12 2017.
2 暗中模索という言葉があるけれど今この時代はもはや光中模索なのではないかと思う 名のある年老いた写真家は「デジタルに闇は写るかい?」と言った 高性能になったデジタルカメラは闇の正体を真昼間のようにいとも簡単に暴いてみせる 写真が真実も気分もありのままに写さないことを私たちはすでに知っている 名もない行進が至るところで生まれて進む 暫定的か恒久的かわからない景色の中で |
2016. 11
(もはや日記でもなんでもないなぁ…) 風景のかたち 足利市立美術館 D現場 百頭たけし TAPギャラリー |
撮影雑記 Y地区とA浜へ。 |
2016. 5
日記なんて言っておいて全然書けやしない…(向いていない…) |
「生まれた街の匂い やっと気づいた もう遠いところへとひかれはしない」 荒井由実 / 生まれた街で |
2016. 4
晴れた日に撮影に行けないととてもくやしい。 |
2016.
3 黄砂が飛んできているのか晴れるとのっぺりとした空になることが増えてきた。 むしろのっぺりとした質感の空を背景にして撮りたいのでありがたい気持ち。 海沿い方面へ向かう途中、国道沿いにまたもや荒涼としているエリアを発見。 すぐに撮影場所に決める。 そこは交通量がとても多い。 トラック、カラオケ店、ラブホテル、車のディーラー、マクドナルド、洋服の青山、イオンモール、ヤマダ電機、アコムむじんくん、焼肉店、無数の高圧鉄塔。 まさに「ここは退屈迎えに来て」の世界そのもの。 そういう景色の中歩いているとどうしてこんなことになったのか?という気持ちがだんだん湧いてくる。 嫌悪感や絶望ではなく一体どうしてこういうことに?という素朴な疑問。 まぁ誰かが望んだからこそ出現したのだろう。 とにかくこのエリアの鉄塔の大きさと多さには圧倒される。道にごみがたくさん落ちている。 わずかだけど津波の痕跡と思われるものもまだ残っていた。ひしゃげたままの柵など。 のっぺりした色の空と固有のものがなにもない景色はとても相性がいいと思う。 撮影中目に違和感があったりしてやはり黄砂が多い日だった。 |
2016.
2 快晴の多い冬。仙台は雪が極端に少ない冬。 晴れるととりあえずカメラを持って新築ラッシュの方面へ向かう。 震災後の数年でものすごい勢いで内陸の空き地を新築の家が埋めていくのを見た。そして今もその勢いは衰えていない感じだ。 「50年前は無かった、そしてたぶん50年後にはもう無い」といった印象のあたらしい景色の中を撮りながら歩いていく。 できたばかりのつやつやの外壁の家がずーっと並んでいる。 明らかにこの土地の在来種ではない植物たちがつつましい庭に植えられ風に揺れている。 ふと「消費期限のある景色」ということばが浮かんで来る。 iPodシャッフルは「君と利害関係したい何をしてもSTAKEHOLDER」とリピート。 かなりの強い風。日差しは目に痛いほどでここはどこなのか?自分はなんのためにここを歩いているのか? 一瞬わからなくなるような目眩がするような心地。平日の晴れた日の宅地に人は少ない。 50年前は無かったそしてたぶん50年後にはもう無い、っていうのはああ「自分」もそうなんだ、と思いながら帰路に着く。 10年前と比べて明らかにカメラに対する道行く子供たちの反応が変わってきたなと感じる。 遠くから撮っていてもこちらのカメラの存在に気づくと顔を覆うしぐさをする子がいてちょっとショックを受けた。 もうスナップショットにとっての牧歌的な時代は終わったんだなって感じる。 このところ夜になると昼間撮影した写真を見返しつつタイトルを延々考えている。 お風呂に入っていても寝床でも考えている。キーになりそうな言葉をノートに書き出していく。 お、これは!と思ってメモして寝て、翌日それを見ても全くピンとこない言葉だったりしてなにをやっているんだろうという気持ちになる。 |